「三笘薫」の経歴集
「三笘薫」の、
幼少期から、現在までの経歴を、
ウィキペディアなどを参考に、
纏めてみた。
<生い立ち>
・1997年5月20日に、
大分県で産まれる。
母親の里帰り出産だろうか?
・その後、神奈川県川崎市で生活。
<アマチュア時代>
・3歳の時に、
先にサッカーを楽しんでいた、
3歳年上の兄の姿を観て、
自分も、サッカー挑戦を決意。
サッカースクールに通うようになった。
・小学生になって、
川崎市立鷺沼小学校のグラウンドで
練習をしている、
「さぎぬまFC」に、正式に入団。
・サッカーの才能が認められ、
「Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)」の
「川崎フロンターレ」の
U10(アンダー10=10歳以下の部)に
加入し、よりレベルの高いサッカーを
体験する。
・川崎フロンターレは、
U10、U13、U15、U18
の下部組織を作っており、
子どもたちは、年齢に応じたグループの中で、
切磋琢磨して、技量を高めている。
・「三笘薫」も、
高校を卒業するまでは、
下部組織で、技量を磨いて来た。
・「三笘薫」が高校を卒業するに当たって、
トップ(フロンターレ)への昇格を打診されたが、
”まだプロで活躍出来る確信が持てない。”
との理由で、断る。
・そして、
スポーツ推薦で筑波大学体育専門学群へ
進学した。
因みに、研究や卒業論文は、
「ドリブル論」で、
”なぜ、自分のドリブルはぬけるのか”
だったとか?
・2017年6月、
筑波大学2年生の時、
天皇杯全日本サッカー選手権で、
2回戦にベガルタ仙台と戦い、
2得点を挙げ、勝利に貢献。
名を挙げる。
・2017年に、
ユニバーシアード日本代表に選出され、
8月に、台北で行われた
夏季ユニバーシアードで、チームが優勝し、
金メダルを獲得。
・2017年9月、
川崎フロンターレの特別指定選手に承認。
選手登録もされた。
・2018年も、
川崎フロンターレの特別指定選手に登録される。
そして、7月には、
大学を卒業する2020年シーズンからの、
「川崎フロンターレへの加入内定」
が発表された。
フロンターレも、他チームに取られたくない
からね。
・2019年も、
川崎フロンターレの特別指定選手に登録される。
<プロ入り後の活躍>
・2020年の大学卒業期に、
川崎フロンターレに正式入団。
・2020年2月22日の、Jリーグ戦開幕試合に、
途中出場だが、Jリーグ初デビューを飾る。
・2020年7月の、湘南ベルマーレ戦で、
Jリーグでの、初ゴールを決める。
・そして、初ゴール以来、
5試合連続の得点を挙げ、名も挙げる。
・2020年10月、
新人としては、Jリーグ史上5人目の、
シーズン10ゴールを記録。
最終的には、
2020シーズンで13得点を挙げる。
・このシーズン、
「三笘薫」の活躍も有って、
川崎フロンターレは、
Jリーグの総合優勝、
天皇杯全日本サッカー選手権優勝、
を飾る。
「三笘薫」自身も、
ベストイレブンに選ばれる。
・2021年2月、
Jリーグ開催前に行なわれる、
前年度Jリーグ優勝チームと、
天皇杯優勝チーム、
が戦う、「スーパーカップ」が行なわれた。
・なお、
2020年シーズンは、
両方とも、川崎フロンターレが優勝したので、
天皇杯準優勝の「ガンバ大阪」が出場し、
3−2で、川崎フロンターレが勝利したが、
「三笘薫」は、2得点を挙げ、貢献した。
<オリンピックでは>
・新型コロナウィルスの影響で、
一年遅れの2021年に行なわれた、
「東京オリンピック」では、
「三笘薫」も、U24の代表選手に選ばれた。
・しかし、
先発出場は、一度も無く、
途中出場がやっとで、
ベンチ入りに呼ばれないことも。
・唯一、「三笘薫」が輝いたのは、
メキシコとの3位決定戦で、
3−1で、日本チームは負けたが、
その1点を入れたのが、「三笘薫」だった。
・「三笘薫」が重用されなかったのは、
まだ、力が認められていなかった所為か、
森保監督の、
「海外チーム所属選手優先」方針、
だったのか、
残念なことだったね。
<ワールドカップでは>
1)アジア地区予選
・2022年11月に開催される
FIFAサッカーワールドカップ
「カタール大会」の、
日本代表に選ばれる。
・アジア地区予選では、
FIFAランキングが34位以内なら、
一次予選は免除され、
日本は、二次予選から出場し、
グループリーグを1位で、通過。
最終予選に出場した。
・最終予選では、
A、Bの2グループに分かれ、
各グループの上位2チームが、
カタール大会の出場を決める。
・ところが、
Bグループに入った日本は、
日本0−1オマーン、
日本1−0中国、
日本0−1サウジアラビア、
と、早々と2敗し、
ワールドカップ本戦への出場が、
危うくなってしまい、
森保監督への批判が、巻き起こった。
・しかし、その後の日本は、
日本2−1オーストラリア、
日本1−0ベトナム、
日本1−0オマーン、
日本2−0中国、
日本2−0サウジアラビア、
日本2−0オーストラリア、
日本1−1ベトナム
と、負けることなく、
最終予選を、2位で突破し、
「カタール大会」への出場を決めた。
・特に、強敵オーストラリアとの試合で、
「三笘薫」は、2ゴールを決めて、
日本の本戦出場に、
大きく貢献した。
2)カタール大会本戦
・カタール大会本戦は、
4チームずつが入る、
8つのグループリーグで、
上位2位以上が、
決勝トーナメント出場となる。
・そして、日本の入った「E」グループは、
FIFAランキング上位の、
スペイン、
ドイツ、
コスタリカ、
が入っており、「死のグループ」と言われた。
・ところが、戦いが始まると、
日本2−1ドイツで、
強敵ドイツに勝ってしまい、
”これで、予選突破だ。”
と日本中が、大騒ぎしたのに、
何と、格下のコスタリカに、
日本0−1コスタリカ、
と、負けてしまったではないか。
・そして、最強のスペインとの対戦になり、
スペインが、82%もボールを支配し、
一方的に攻められまくった日本で、
前半に1点取られ、負け模様だった。
・ところが、
後半48分、堂安律のミドルシュートで、
同点に。
・そして、
後半51分に、奇跡が起きた。
堂安が、反対サイドに上げたボールが、
あわや、ゴールラインを割るかと言う時に、
三笘薫が、懸命に足を伸ばし、
ゴール前に切り替えすと、
詰めていた田中碧が、身体で押し込み、
2−1と、勝利したのである。
・この三笘薫が切り替えしたボールは、
僅か、1cmほどが、
ゴールラインに被さっていて、
この大会から採用された「VAR」の画像で、
確認され、
「三笘の1mm」の言葉が生まれた。
・なお、
テニスなどは、
ボールが、ラインに触れてないとアウトだが、
サッカーは、上から見て、
ボールの一部が、ラインに被さっていれば、
ラインに触れていなくても、イン、
と言う決まりが有るからだ。
・こうして、
「三笘薫」は、
世界に名前を轟かすことになった。
・決勝トーナメントに進んだ日本は、
準々決勝(ベスト16)の戦いで、
日本1−1クロアチア、
と、同点のまま試合を終え、
PK戦になって、
3人連続で、PKを失敗し、
2番目に蹴った「三笘薫」も失敗し、
号泣する姿を、見せた。
・「三笘薫」のワールドカップは、
最後に、悲しい結果となったが、
どの試合でも、左ウィングから、
鋭いドリブルで切り込み、
チャンスを演出するなど、活躍した、
・ただ、私としては、
「三笘薫」が、後半からしか、
試合に出て来なかったのが、
納得出来ない。
”何で、三笘を、最初から使わないのか?”
との疑問が、吹っ切れなかったねえ。
・だって、
森保監督自身が、
”三笘を使うことが、戦術そのものだ。”
と言っているのにさ。
<海外チームでの活躍>
・2021年8月に、
東京オリンピックが終わった後、
「三笘薫」は、
イギリスのイングランドの
プロサッカー一部リーグの
「プレミアリーグ」に入っている
「ブライトン」に、移籍した。
・この時の移籍金が、
300万ユーロで、3億9千万円に当たり、
Jリーグから海外チームに移籍した選手の、
移籍金の最高額となった。
ただ、海外のレベルでは、安い移籍金で、
Jリーグの力が低く見られている証拠だ。
・ところが、
「三笘薫」は、
U24の代表経験は有っても、
本来の国代表選手経歴が無いことから、
イギリスの労働許可証が発行されず、
直接の、ブライトンへの移籍が、
認められなかった。
・そこで、
ヨーロッパでは、格が低く見られる
ベルギーサッカーの1部リーグに所属する、
サン=ジロワーズに、期限付きで移籍し、
一年間、海外での活動実績を作った後、
本家ブライトンに帰ることになった。
・そして、
ハットトリック(一試合に3点を取る快挙)
などの、活躍を示した。
・ブライトンに帰って来た「三笘薫」は、
2022年7月16日、
プレシーズンマッチだったが、
試合の後半から出場し、
早速、ゴールを決め、存在を示した。
・2022年8月13日に、
プレミアリーグの初出場を果たした。
・以後、
「三笘薫」の活躍は続き、
”たったの300万ユーロで移籍して来たなんて、
信じられない。”
との、高い評価を受けている。