藤井聡太のエピソード集


 藤井聡太の周りにには、
色々なエピソードが溢れている。

 そして、その殆どが、微笑ましいものだ。


 と言うことで、纏めてみた。



<藤井聡太の高校卒業>

 藤井聡太は、今、
「名古屋大学教育学部附属高等学校」
の3年生である。


 小中学校は義務教育なので、
児童生徒の出席日数に関しては、
色々な事情を考慮して、柔軟に対応する。

 結果、出席日数が足らなくても、
「留年させても改善しない」
と判断した場合は、卒業させることも有る。

 極端な場合、
6年生で一日も登校出来なかったとしても、
卒業させることがある。

 それは、留年させて、もう一度6年生をさせても、
また登校しなかったら、無駄な一年を送らせるだけで、
それよりも、卒業させて、次の新しい環境を探させる方が、
ずっと教育的だからである。

 結果、
・定時制などで登校を始めたり、
・働き始めたり、
する子がいるのも事実である。


 しかし、高等学校は、そうは行かない。
 自分が進んで(親に強制されても有る)入学したからには、
・授業料を払い、
・決められた授業日数を出席しないと、
 その教科の単位が取れず、
・高校3年間で、決められた単位を取らなければ、
 留年か退学しなければならない。
ことになる。

 そうなると、心配なのは、藤井聡太の出席日数。

 藤井聡太の対戦数は、プロ棋士の中でもトップクラスで、
一年間の最多対局数で表彰を受けたこともあるほどだ。

 それに、対局日だけでなく、
・対局日の前後には旅行日も有るし、
・棋聖タイトルを奪取した翌日にも有ったように、
 記者会見やイベントも待っているなど、
学校に行く日数が、どんどん減って行く。

 と言うことは、授業日数が足りなくなる恐れが。

 でも、その点は大丈夫のようだ。
 と言うのも、
「タイトル戦は、出席扱い」
にしてくれるので、授業日数は何とか足りているそうな。
 良かったねえ。


 次は、学習内容の問題だが、
高等学校では、
授業の補充や補修など、学習のサポートをし、
卒業出来るようにするそうな。

 「棋聖」タイトルを取るような生徒が落第したとなると、
それはそれで、大変なことだものね。


 と言うことで、高校卒業は、大丈夫のようだ。


 となると、次は大学進学だが、藤井聡太は、
”(将棋一筋に生きたいのに)
 大学に行く意味が有るのか?”
と、母親に言っているらしく、
”聡太には、東大に行ってほしかった。”
母親の裕子さんだが、今は諦めているそうな。


 因みに、大学に行く目的は、
・純粋に、自分の好きな学習を深める為、
・教養を深め、人間として高める為、
・自分がなりたい職種の資格を取る為、
 自分がなりたい職種に役立つ知識を得る為、
・多種多彩な人たちとの交流を増やし、
 人間としての幅を広げる為、
などが考えられる。

 なお、最近は、
・少しでも社会に出て働くのを遅らせて遊びたいから、
・特に目的も無いけど、
 高卒よりも大卒の方が、格好良いから、
などの、目的の無い大学生も増えている。


 そんなことを考えると、
藤井聡太は、将棋の中に、
誰も真似が出来ない目的や道を見付けているので、
ただ単に「大学卒業」の名称だけの為に
大学に行く必要は無いわな。



<藤井聡太の進学>

 藤井聡太は、今、
名古屋大学教育学部付属高等学校に在学。

 しかし、高校進学に関しては、
かなり葛藤が有ったそうな。

 と言うのも、
将棋一番の藤井聡太は、
あまり進学には興味が無かったそうな。

 それに対して、母親の「藤井裕子」さんは、
聡太に、東京大学に行ってほしかったそうな。
 藤井聡太ほどの頭を持っているなら、
東大合格も可能だろう。

 何せ、
プロ棋士には、一年間に4人しかなれないのだから、
「プロ将棋になるのは、東大に合格するよりも難しい」
と言われているからね。


 しかし、結局は名古屋大学付属高校に進学したのだが、
それには、肯定的な声が多い。

 現に、羽生善治永世七冠の奥さんも、
”羽生も、藤井先生の高校進学を喜んでいました。”
とSNSで語っている。

 と言うのも、
将棋界と言う限られた世界しか知らない人生でなく、
色々な人と交じり合って、人間性を高めるのも必要、
と言うことだろう。


 しかし、本人の藤井聡太は、
将棋の対局が増える中で、
授業への出席も減っているし、成績も下がっているし、
”卒業出来るのかな?”
との不安を感じているようだ。

 また、
実家を出て、東京で生活したいと思っているそうな。

 と言うのも、
ライバルであり、良き仲間である永瀬八段に
名古屋に来てもらって研究会をしているが、
逆に、月2回、藤井聡太も東京に行って、
二人の研究会をしているのだが、
その移動の時間が惜しいそうな。

 瀬戸市から東京に行くには、
1)電車で50分ほど掛けて名古屋駅に行き、
2)新幹線に乗って、例えば「のぞみ」で1時間40分ほど、
3)二人が研究会をしている両国将棋囲碁センターへ
と、3時間ほど移動時間が掛かるそうで、
それが勿体無いのである。

 東京に住めば、何かと便利なのは事実かも知れないが、
地元の人たちは寂しいだろうね。


 そんなわけで、出来ることなら、
「高校中退をしてでも、将棋一筋に生きたい」
のが、藤井聡太の本音だろう。

 ちょっと気になるねえ。


<藤井聡太の初恋?>

 藤井聡太くらいの人気者になると、
色々な人間が、近寄って来る。

 当然、良い人もいるけれど、
・上手く利用して、良い目に遇おう。
・騙して、儲けてやろう。
・彼女や嫁さんになれないものか?
など、別の狙いを持って、近付く者もいるだろう。

 そんなわけで、気を付けてください。
 聡太君よりも、お母さんや杉本師匠が。


 ところで、肝心の聡太君は、
女性には関心が有るのだろうか。

 どうやら、将棋一筋で、忙しそうだ。
 だから、
・アイドルの誰々のファンであるとか、
・好みの女性のタイプはどうこうとか、
の話が、テレビやインターネットで出て来たことが、
一切無い。

 ただ、唯一、
「ふみもと将棋教室」の文本先生の、
”聡太君が幼稚園の年長の時、
 2つ年上のA子ちゃんと言う女の子がいて、
 A子ちゃんは、いつも聡太君のことを
  『そうちゃん、そうちゃん!』
 とかわいがっていた。
”ある日、教室で、最年少の聡太君が、
 年上の小学生たちに向かって、
  『A子ちゃんをいじめるなよなあ!』
 って真っ赤な顔で、端から順番に、
 グーッとにらみつけて、
 あまりに迫力満点だったので、
 みんな驚いて凍りついてた。”
”いつもかわいがってくれた女の子なんで、
 もしかしたら、聡太君の初恋だったのかも
 知れない。”
と言うエピソードが、光っている。
 男らしいねえ。


<こだわりの藤井聡太>

 子どもの頃の藤井聡太は、
時間や数字、順序などにこだわる子だったそうな。

 例えば、旅行などに出掛ける時は、
出発時間や到着時間が気になって、
それをはっきりさせないと嫌だったそうな。


 また、本を読むことも好きで、
小学校高学年で、
司馬遼太郎の「龍馬がいく」8巻を
読破したそうな。

 新聞も良く読んでいて、
小学4年生の時に書いた自分紹介の色紙に、
「関心が有ること」として、
将棋は一番だが、
その他に、
尖閣列島、南海トラフ地震、原発、
を挙げていた。


 将棋のことに没頭し、
歩いていて、ドブに落ちたことが数回有るそうな。

 大阪に有る関西棋院での宿泊の奨励会に参加し、
将棋に没頭し、持って行った着替えなどを置きっ放しで、
空のバッグだけを持って、瀬戸市に帰って来たことも
有ったそうな。

 まあ、将棋や囲碁、芸術面などで活躍している人は、
殆ど、そう言うエピソードを持っているけどね。


 インターネットの投稿の中には、
細かなことにこだわる性格や言動、
将棋に負けると、場所を構わず大泣きしていたこと、
などを捉えて、
「藤井聡太はアスペルガー」
などと書いて喜んでいる輩も居るが、
そんなことで、書いている人間の値打ちは上がらないし、
逆に値打ちを下げるくだらない行為だ。

 また、仮にそうだとしても、
藤井聡太の才能に、一点の曇りも無いわ。


<聡太の悔し泣き癖>

 藤井聡太は、凄く負けず嫌いで、
小学生の頃は、将棋に負けると大泣きしていたそうな。


 藤井聡太が2年生の時、
「小学生名人戦」愛知県大会
に出場し、優勝候補だったそうな。

 ところが、藤井聡太は、
準決勝で思わぬ敗けをしたそうな。

 その途端、会場中に響き渡る大声で泣き、
周りをビックリさせたそうな。

 あまりもの号泣に、
”こんなに大泣きを続けたら身体を壊すんじゃないか?”
と心配させるほどの号泣だったが、
その時、お母さんの「裕子」さんは、
黙って、抱き締めてあげていたそうな。

 そして、その後に行なわれた3位決定戦でも、
涙は止まらず、泣きながら将棋を指し、
それでも勝って、3位にはなったそうな。

 3位決定戦を戦った相手の子どもも、
良い迷惑だったことだろう。


 この負けると泣く癖は、
杉本昌隆氏の門下に入れてもらい、
本格的に将棋を学び出した後も続き、
杉本師匠は、
”うちに来てからも、
 小学生の頃は、しょっちゅう泣いていました。”
”将棋盤を抱えるように身体を被せて、
 泣いていましたねえ。”
と語る。

 また、
谷川浩司九段との対戦でも号泣しているそうな。

 藤井聡太が小学2年生の時、
名古屋に来た谷川浩司九段が、
イベントで藤井聡太と対局した時、
飛車と角を落とす「二枚落ち」で戦い、
なかなか決着が付かなかったので、時間のことも有り、
谷川九段が、
”引き分けにしようか?”
と言ったところ、
藤井聡太は、盤に覆いかぶさって大泣きしたそうで、
困った谷川浩司九段は、杉本七段の助けを借りたそうな。


 これらの号泣癖は、負けず嫌いの表れなんだろうが、
周りの者には、ちょっと迷惑だったことだろう。

 勿論、今は泣かないけどね。


 なお、藤井聡太が人前で泣いたのは、
同じ杉本師匠門下の竹内貴浩先輩が、
三段まで上がったが、四段にはなれず、
プロ棋士を諦めて去る時の送別会だそうな。
 ちょっと涙の種類が違うけどね。


<聡太の運動神経>

 将棋は、ズーっと座っているスポーツだけど、
運動神経はどうなのか?

(外国では、
 トランプやテレビゲームもスポーツ扱いなので、
 私は、将棋も、スポーツのジャンルに入れる。)

 藤井聡太は、球技はあまり得意ではないらしい。

 しかし、小学生の頃、足はクラス一番に速くて、
短距離走で、サッカーをやっている子どもにも勝ってたので、
抜かれた子たちが悔しがっていた、
と言うエピソードは有る。

 また、「ふみもと将棋教室」でも、
将棋が終わった後などには、
他の教室生とプロレスごっこなどで大暴れしていたそうな。

 子どもらしいエピソードが有って、良かった。



<将棋教室・研修会入会>

 5歳の時、
外祖母「清水育子」さんに将棋を教えられ、
凄く興味を持って、ルールを即座に理解。

 将棋の相手にされた外祖父も、
直ぐに歯が立たなくなって、
将棋相手を探すことになったそうな。

 そこで選んだのが、
地元瀬戸市に有る「ふみもと子供将棋教室」
だったそうな。

 主宰者である「文本力男」さんは、
”私の教室では、級を細かく20級まで作っていて、
 藤井聡太君も、20級からスタートしましたが、
 一年間で4級まで昇級しました。”
”詰め将棋も、
 3手詰めから始めて、
 一年間で、11手詰めまで進みました。”
”こんな子は、初めて見ました。”
と語っている。

 藤井聡太は、
7歳で小学1年生だった2010年の冬、
「ふみもと将棋教室」で、
アマチュア初段になる。

 「ふみもと将棋教室」では、
初段になった子どもには、
「東海研修会」への入会を勧めていて、
小学1年生で、藤井聡太も入会する。

 「東海研修会」は、名古屋市栄に有り、
地元の杉本昌隆七段や、
関東や関西の棋士も定期的に招いて、
指導を仰いでいる、レベルの高い研修会だった。

 藤井聡太は、その中でどんどん力を伸ばし、
大会で優勝するなどして、
「将来の名人」
と噂されるようになった。


<聡太に将棋を教えたのは祖母>



 今や、
「藤井聡太を中心に、将棋界は回っている。」
と言っても過言ではないほどの注目を集める高校生。

 その藤井聡太に将棋を教えたのは、
母方の祖母「清水育子」さんだ。

 なお、外祖父母の「清水家」は、
「藤井家」の隣に有るそうな。


 このお祖母ちゃんは、
3人いる娘たちの産んだ孫たちに、
将棋と囲碁のルールを教えて来たそうな。

 そして、孫の「聡太」にも教えたのだが、
その時に使ったのが、「スタディ将棋」である。

 これは、1つ1つの駒に、
駒の勧める方向や距離(枡の数)が印刷されているので、
将棋のルールを覚え易い物である。

 しかし、聡太の理解力の高さに、
”ほかの子たちと明らかにものが違ったから、
 ふつうの将棋に切り替えて子ども将棋教室に通わせたの。”
と言う。

 このお祖母ちゃんの切っ掛けや、将棋環境が無かったら、
藤井聡太は、別の道を歩んでいたかも知れない。