レッド・ドラゴン

<はじめに>

 このページには、映画「レッド・ドラゴン」の詳細が書かれているので、これから映画「レッド・ドラゴン」を楽しもうと思っている人は、以下を読まない方が良いかも知れない。

 しかし、映画の背景を詳しく知りたい人は、読んだ方が良いかも知れない。

 

<あらすじ(前半のみ)>

 精神医学のオーソリテイ(権威者)であり、解剖学にも精通した「ハンニバル・レクター博士」は、同時に連続殺人者であり自分が殺した人間を食べる異常者でもあった。

 そのレクター博士を逮捕したのが、FBI(アメリカ連邦捜査局)捜査官の「ウィル・グレアム」捜査官であった。その結果、レクター博士」は第一級重要犯罪人刑務所に入れられ、「ブレアム捜査官」は、「レクター博士」との戦いで精神にダメージを受けFBIを退職し、田舎で家族と共に静かに暮らし始めた。

 

 その2年後、家族全員が残酷な殺され方をする連続殺人事件が発生する。犯人は、先ず主人を殺し、次に夫人を死なない程度に傷つけ動けないようにして置いて、次に子ども達を殺し夫婦の寝室に運んできて、子ども達の目に割った鏡の破片を入れて見物人に仕立て、その前で夫人をレイプするという残酷さである。

 

 連続事件に困ったFBIの「クロフォード局長」は、退職した「ブレアム」元捜査官に捜査の協力を依頼し、「ブレアム」は復帰する。

 しかし、行き詰まった「グレアム」は「レクター博士」に犯人像の推理協力を求め、「レクター博士」の与えるヒントを手がかりに犯人へと迫っていく。

 

 この殺人犯は、「ビデオテープ」を編集し送り返すのを事業としている会社に勤める男「ダラハイド」で、「ダラハイド」は、全米から送られてくる家族ホームビデオの中から美しく魅力的な夫人の居る家庭を選び襲っていたのである。

 何故、この男がそのような犯罪を繰り返すのか。

 この男は、兎口(みつくち)の障害を持って生まれ発音もままならず、それらが原因で母親に捨てられ老人ホームを経営する祖母に育てられたのだが、祖母の虐待を受け育っていく中で、自分の容姿に対するコンプレックスから精神状態が歪んでいったのである。

 加えて、ダラハイドは、「自分が人間を超え、最後はドラゴンになる」という幻想を抱いて全身にドラゴンの入れ墨をしているのだが、その影響を与えているのが、詩人であり画家でもある「グレアム」という人物が描いた「レッド・ドラゴン」である。

 

<映画と小説の違い>

 当たり前のことであるが、映画は2時間10分という長さにも関わらず、時間が足らず細かな点は描き切れていない。

 ・殺人犯ダラハイムが小さいときに受けた余りにも悲しい仕打ちの数々。

 ・その結果生まれた祖母コンプレックスが、祖母の入れ歯を残して置いて、

  殺人の時その入れ歯をはめ、女性の肌を噛むこと。

 ・自分が成ろうとしているドラゴンが、反対に自分を束縛しようとして

  愛するようになった盲目の女性をまで奪われると言う幻想に苦しむダラハイムの心。

 ・幼いダラハイムが、自分を捨てた母親が裕福な男性と結婚し住んでいる豪邸に連れて行かれ、

  みつくち(兎唇)のため上手に発音できない口で、「おあーあん」と呼びかける姿。

 小説を読むと、異常な犯罪を起こすダラハイムの歪んだ心にも、少なからず同情を覚えてしまいそうになるのである。

 

<主演者のこと>

 この映画の主演は、「レクター博士」を演じる「アンソニー・ホプキンス」であろうか、それとも「グレアム捜査官」を演じる「エドワード・ノートン」だろうか、それとも「ダラハイム」を演ずる「レイフ・ファインズ」だろうか。この3人とも、俳優としては凄い経歴を持っている人達である。その経歴を紹介したいが、時間がないので他のサイトを紹介して置く。

 私的には、2002年に作られた映画「ハンニバル」の出来は今一で、世界中の「レクター博士」ファンはきっと大不満であっただろう。私もがっかりした。しかし、「レッド・ドラゴン」の「レクター博士」は、正に「レクター博士」であった。

 

<3部作の問題点>

 事件や原作者の小説を書いた時間の流れで言うと、「第1部:レッド・ドラゴン」−「第2部:羊たちの沈黙」−「第3部:ハンニバル」である。

 しかし、俳優「アンソニー・ホプキンス」が出演した順番は、「羊たちの沈黙」−「ハンニバル」−「レッド・ドラゴン」の純になる。その為、年を取った「ホプキンス」が若い頃の「レッド・ドラゴンでのレクター」を演じることになる。それを心配していた私だが、映画の出来が素晴らしかったので、それは気にならなかった。

 

 もう一つの問題点は、この「レッド・ドラゴン」が、1986年に一度映画化されていることである。「レクターシリーズ」で儲けたいということで「ハンニバル」に続いて連作されたのだろうが、前作を超えられるのか、という心配もあったようである。が、そんな心配は全く必要がなかった。恐ろしく凄い出来であった。

 

<最後に>

 映画でも小説でも、架空の人物が存在感の高さで、知らぬ間に「実在の人物」と思われてしまうことがある。私にとっては、「レクター博士」がそれである。そして、同じ様な気持ちは、世界中で沢山の人が持っているはず。それ程、「レクター

博士」の存在感は、圧倒的なのである。

 しかし、「レクター博士」に惹かれている自分が恐い、とも思う私である。