「荻原 浩」著 「海の見える理髪店」の粗筋
上記の小説の粗筋を書いておく。
ただし、作者の意図した構成などは無視して、時系列的に出来事を並べた粗筋なので、この小説が好きな方は、立腹されるかも知れない。
だから、そんな方は、読まないようにしてください。
また、読んだ後に、クレームを述べられるようなこともお止めください。
この小説は、理髪店の主人が、お客さんに、自分の人生を話して聞かせる形で書かれている。
しかし、最後の「原田」と言う名の若者の視点が、この物語を、美しく儚く締め括っている。
<子供の頃 戦前>
・戦前(第二次世界大戦前)、
・私(理髪店の主人)は、
祖父の代から続く理髪店に生まれ、
・12歳の頃から、国民学校が終わると、遊びも許されず、
理髪店の手伝いをさせられる。
手伝いと言っても、掃除だけで、
髪の毛1本落ちてても、ゲンコツが跳んで来たものだ。
・その頃の理髪店の職人は、12、13歳で弟子入りしてたから、
店を継いでも、従業員に侮られないよう父の配慮だったのだろう。
・戦争が近付くと、男は丸刈り頭にするようになり、
散髪屋ではなく自分で頭を刈るようになり、お客も減り、
廃業する店が多くなった。
また、従業員も動員で減って行き、金属椅子も軍事供用させられた。
そんな所為で、中学生になる頃は、バリカン刈りを任された。
・しかし、大空襲で店が焼けて無くなってしまった。
<終戦後>
・中学2年生の時に、終戦を迎える。
・軍国教育を叩き込んでいた教師たちが、
掌を返したように民主主義を教えるので、
学校が馬鹿らしくなり行かなくなった。
・父親が、バラックの散髪屋を開いたが、そこで働かず、
看板屋の見習いなどをして生きて来た。
・絵描きになりたかったが、美術学校の受験資格に、
旧制中学校卒業の視覚が必要だったので、諦める。
・18歳の時に、父親の散髪屋に戻り、
20歳の頃に、子どもの客の散髪を任される。
・22歳になって理容椅子1脚を任されるようになったが、
父親が心臓病で死亡。
私の腕が信頼されず、客が激減した。
・客が減り、時間が出来たので、自分自身に猛特訓を課し、
腕を磨く。
犬や猫の死骸で練習したことも有った。
<上昇期>
・昭和30年代に入り、
前髪を長くしたスポーツ刈りの「慎太郎刈」が流行し、
「慎太郎刈りが上手い」との評判で店がはんじょう。
・また、常連や子どもたちの溜まり場になり、
テレビも設置。
・秋田から来て、店の雑用をしていた遠い親戚の女性と結婚。
<下降期>
・昭和40年代になって、男性の長髪やパーが流行り、
古いスタイルの理髪業が不況になる。
・私の店もお客が減り、2人いた従業員への給料の支払いも苦しく、
酒好きだった私は、酔って女房にも手を上げるようになり、
女房は秋田へ帰って行った。
<絶頂期>
・2人の従業員に辞めてもらい、新たな道を模索する。
・そして、店をホテルのロビーみたいに改造し、
腕の良い従業員を高給で引き抜き、
共に、エステやマッサージを学び、
シャンプーやトニックを高給な物に替え、
料金も他店の倍以上に設定した。
・すると、今までのお客は来なくなったが、
高級志向の新たなお客が来るようになり、店が大はん盛した。
・加えて、有名な俳優が来て、
「ヤクザ映画の主演をするから、相応しい髪形にしてほしい。」
と頼まれ、工夫して作り上げた髪形が、トレードマークになり、
信頼を得る。
・その有名な俳優がマスコミに私の店を紹介してくれ、
それ以来、有名コメディアンや小説家、大臣歴任政治家など、
次々ときてくれるようになると、結果、お客に対しても横柄になった。
・48歳になった時 「箔」を付けたくて銀座に2号店を出店。
翌年、小料理屋に勤めていた一回り年下の女性を、
口説きに口説いて、結婚。
50歳を過ぎて、初めての子どもを授かり、人生の頂きを迎えた。
<どん底>
・銀座2号店の経営が悪化。
私は酒に逃げ、他所に女まで作り、家に帰らなくなった。
・40歳過ぎの妻子も持っている従業員に本店を任せていたが、
その男が、
「店を辞めて独立する」
と言い出し、口論になり、ヘアアイロンで殴り、殺してしまう。
・服役中、「人殺しの妻」「人殺しの子」などと言われないよう、
「他所で作った女と一緒になる」
と嘘を付き、無理矢理離婚する。
・刑務所では、理髪係を務める。
・服役中に、人に頼んで理髪店を売ってもらい、
遺族に賠償金を受け取ってもらう。
<再出発>
・出所し、犯罪者には勤め先も見つからなかったが、
保護司の紹介で、老人ホームの出張散髪を始め、
自分には床屋しかないと気付く。
・2度目の女房と建てた東京の家を売り、
東京から離れた海辺の小さな町の、洋風造りの民家を購入し、
理髪店に改装。
東京の家に有った、思い出のブランコを持って来た。
・そして、大きな鏡を設置。
この鏡一面には、海と空が映り、
お客さんが楽しめるようにした。
しかし、本当は私の為で、
お客さんが海と空を見てくださっていれば、
私が人殺しだと気付かれないだろうかと思ってである。
・初めは誰も来なかったけど、
理髪店だと知った近所の人が来てくれるようになったし、
店を開いて3年目には、あの有名な俳優が来てくれた。
・また、その俳優が亡くなる時に呼んでくれて、
「今の私が有るのは、貴方のお陰です。」
と言ってもらい、生きていた甲斐が有ったと思った。
<若いお客の来店 私と若者の視点の交錯>
・店を開いてから15年経った時、
「原田」と名乗る若い男性が、予約を入れて来る。
・「原田」からの予約が入った時点で、
他の予約を断り、若者の為に精一杯の腕を振るう決意をする。
・希望の髪形を聞かれた若者は、
「お任せします。」
と答え、私は、嬉しく思う。
・若者の頭の変な場所に有るつむじを確かめ、
頭に残る傷を確かめる。この傷は、若者(息子)が子どもの頃に
ブランコから落ちて出来た傷だ。
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・息子「原田」は、口の重い母親からではなく、
噂話を集め、この理髪店の場所を突き止め、予約する。
・店主は、鋏を幾つも持ち替え、念入りに髪を切り、
丁寧にシャンプーやシェービングをしてくれる。
・最後に、骨格を確かめるように私(息子)の顔のマッサージを繰り返す。
<別れ>
・息子「原田」は、
「美大を出て、デザイン事務所に就職、
イラストレーターとしても仕事が入るようになったので、
一人でやって行こうと思う。」
と語る。
・店主が、
「お母様はご健在ですか?」
と聞いて来たので、息子「原田」は、
「ええ。」
と答える。
・そして、
「来週、僕の結婚式が有るので、
美容院ではなく、きちんと床屋に行っておきたかった。」
と語る。
店主は、
「おめでとうございます。」
と言ってくれ、息子「原田」は、
「有り難うございます」
と答えたが、その後に付け足そうと思った言葉は、
喉の奥にしまいこんだ。
・レジの脇にメンバーズカードが積まれていたが、
店主も勧めないし、息子「原田」も取らなかった。
・店主が代金を受け取ろうとしないが、無理に受け取ってもらい、
息子「原田」が店を出ようとした時、店主の声が背中に飛んで来た。
「あの、お顔を見せていただけませんか、もう一度だけ。
いえ、前髪の整え具合が気になりますもので。」
流石、「直木賞」を受賞するだけはある、心に沁みる物語であった。
私が涙を流したわけを、分ってもらえましたでしょうか?